予測不能の重要性
本日は、音楽に合わせて大きな一枚の紙に即興で絵を描いていくというパフォーマンスを見た。
映像や舞踊との共演はあったけど、絵の即興は初めて見たのですごい新鮮で自分でとてもやりたくなった。普段、何気なく絵を描く事があるので自ら絵の即興ということは日常的にカフェでもどこでもふとやってるので、その作業に似てるなと感じるところもとてもあった。
そこで、パフォーマンス終了後に、パフォーマンスの評価として、落ちがわかったり何をしてるかわかったらだめだという感想をいっている人がいてふむふむと思った。
たしかに漫才もそうだし、音楽のフリーインプロヴィゼイションにしても終わりを予感させたら興ざめしてしまう。映画でもドラマでも小説でもそうだ。落ちが見えるとつまらないものになってしまう。
人の優しさもそういえばそうなんだなと思った。のちのちあれがこんな形で活きてくるなんて、すごい感謝しなければならないというのが本当の優しさであったりする。
じゃあ、その予測不能はどのようにして創られるべきなのか。あえて意図的に技術的に組み込まれるべきなのか。それもまた難しい問題だ。手法として組こまれた驚き。それもある意味つまらないものな気がする。
昔、何かでよんだことがあるが、万人にうける物語というのは読者の希望を裏切りながらも読者の期待に答えていくものだという。小さく期待を裏切り続けながら、大きく期待に答える。それが面白い物語なのだという。即興演奏もそうなのだろうか???
恋愛映画なんかにしてもそうかもしれない。あえて、二転三転四転5転させておいてハッピーエンドみたいな。それも以外な形でハッピーエンド。
しかし、そう考えると、作曲やインプロビゼーションに必要なことは、いろんなシーンを創れるだけの経験と色彩のパレット、ドラマの手法、そして感情の起伏、エネルギーのダイナミクス、技術力、表現力、表情、いろいろな要素をもった豊かな人間でなくては表現できないということだ。
自分の大好きな演奏家であるキースジャレットの演奏にしてもそのバランス感覚たるやすごいものがある。
たとえば、今年のオリンピックではウサインボルトが常識では考えられない記録で、それも流しながら世界記録。男子100メートルリレーでは他国のバトンミスで日本がまさかの銅メダル獲得ですごい感動。でも、ボルトの記録はこれ以降予測可能のドラマになってしまうわけで人々の感動の基準はより厳しくなる。
常に新しい予測可能が要求されるようになるけど、いいものはいつまでもいいという発想も逆にあるな。映画でもストーリーわかってんのに何度みても感動するものもある。
予測不能と感動についてもっと深く考えてみたいな。
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